阪神大震災

さて、もう9年も経つのですが、自分もあの日「被災者」となったひとりで…。

昨日のニュース番組で色々と特集が組まれていましたね。で、9年経つのですが、やはり未だにその影響がテレビに出てくる被災者の人々からは伺えるわけです。「いやぁ、もう9年も経ちましたからね、全くの過去ですよハッハッハ」なんてコメントはイッコも無い訳で。テレビ的に、それじゃお話にならない、って事でオミットされている可能性も無きにしも非ずですが、ある種の人間なんかには「いつまで引きずってんだよ、ケッ」なんて思われるやもしれません。

しかし、自分はひとつ、あの地震で勉強したことがあって、それは、「他人の経験を共有したり、共感したりすることは決して出来ない」って事なんですね。

というのも、同じ震災を経験した、とされる人と話したりしても、「ああ、大変だったよねぇ、うちもタンスはひっくり返るし、台所の食器が全部飛んで割れて足の踏み場も無かったよ」って聞いたりしても、スウプとしてはチョット萎えてしまうんですね。

自分は家が、「文字通り」全壊して屋根が自分が寝ていたベッドを粉々に砕いていたらしくて、危うく家に殺されるとこだったりしますので、申し訳ないが、食器が割れるくらいドッて事ない、ぐらいの感覚しかないんです。(伝聞でしか状況が分からないのは、4時間ほど瓦礫に埋まって、助け出されて地域を脱出する事になったので、そのあと後片付けに参加できなかったから)

ですので、逆に家を焼かれたり、肉親が瓦礫の中で生きているのが分かっていても助けられなかった人々の悲しみ、怒り、恐怖は僕には残念ながら理解しようにも理解できないと思っています。おこがましいと思うんですね、「大変でしたね」なんて言うの。
ただ、「僕なんかには想像もつかない程の苛烈な経験をしている人々がいる」って事「が」分かっていると思っています。

だから自分がそういう人々に対したとき、出来るのは安易な共感を表明することでなく、ただ、そういう人の言葉に耳を傾ける事ではないかと思っています。

以上、自分のあの日に対する思いの極一部。
そんなこんなで、毎年、この日は生きる意味とその時点での己の生き様を、自分自身に問う日になっています。