昨日のつづき

いろいろ文章を弄くっていたのだけど、某氏がシンプルかつ、的確な評をUPされてるのを見て「うーん、漏れ様は書かんでいいかな」とも思ったんだけど。
まぁ、つらつら書く感じでやってみよう、と。


73年版日本沈没に対して、今作はどういう映画にするか、というのはアバンタイトルの作り方に明確に現れてる。




地殻の異変を観測はしているけど、何も起こってない旧作のアバンタイトル。地殻の観測風景から始まり、ヒーロー小野寺の説明、田所博士のキャラ付けを自然と観客に説明する、と。で、この2人は観客が感情移入すべきヒーローと、「お話のタネ」の語り部なんだな。
そして、やがて「ジワリジワリ」とカタストロフが日本人によって明らかになり、予兆の災害に巻き込まれ、恐怖というかスリルを徐々に盛り上げていく訳で、お話の語り口としては旧作のほうが「王道」ですよね。


対して、ヒーローと、ヒーローとヒロインの繋ぎ役の少女が、いきなり被災者として登場する新作。そしてやたらカッコ良く登場するヒロイン。このイキナリさ。
そして、このシーンの登場人物の中で「大きなお話」を語れるキャラは一人もいない。




コレだけで制作者たちが、新作を「個人の話」として物語を動かそうとしてるのが現れているんではないかと、自分は思います。また、旧作にあった作品の世界観の説明をあっさりすっ飛ばしてるのも、観客が旧作を見ている/知っていることを意識して、「大きな話は言わなくてもいいだろう。それより自分たちは個人の話で物語を動かそう」という意思が明確に現れてるんでないか、と。




それは登場人物の演出をみても徹底している。


国家、ヒューマニズムと立ち向かう旧作の丹波哲郎と、孫の名前について私事を語り、「思い」で大臣を抜擢する新作の石坂浩二


地殻変動観測の最前線に立つ操艇者として嫌が応にも「大きな物語」巻き込まれる旧作の藤岡弘。対して新作の草なぎ剛は操艇者としては「サブポジション」だし「D計画」の中枢に触れる気配は殆どない。


柴咲コウの生い立ち、少女と母親の死別、「下町の人々」のヒロインと少女との「触れあい」が描写される新作。対して旧作のヒーロー、ヒロインには一応のバックグラウンドは与えられてるけども、具体的な描写は全くと言っていい程、無し。「人々」は「群集」もっと言うと「モブ」としてしか描かれない旧作。


まだあるけど、コレだけ見ても徹底して「個人の話」をしようとしているのは明らかで。そういう意味では脚本、演出ともにブレが無く良く出来てるんじゃないかと。
や、「そんなの好きじゃ無いやい」っての、わかります。自分自身もこんだけスケールの大きい物語を「個人の話」だけで展開するのはチト違和感があるし、個人の感情の動きだけで物語が終始するのは好みではないんですね、実のところ。




でも、じゃあ、平成の今の世の中で、D計画の中枢に関わりを持ち、傷ついてる人見かけたら全力で救援し、自身が傷ついてもヒューマニズムに駆り立てられて*1行動する「ヒーロー小野寺」に我々、「平成の小市民」は感情移入できるんだろうか。
国家と民族とヒューマニズムに果敢に立ち向かう丹波哲郎を、平成の今、石坂浩二(ライオン首相)が演じる事に「嘘くささ」を感じぜざる得ないんではないだろうか。
そういう事なんではないだろうか。
だから、自分は好き嫌いでなく、この演出の方向性は「妥当」だと思ってこの作品を鑑賞したんです、ハイ。




で、そんな制作者の「腹の括り方」を感じたものだから*2、それらを念頭に、今作を見ると、色々仕掛けがしてあってとても面白い。


この話でヒューマニズムを語る役割を負うのは女性なのな。
作品冒頭で石坂浩二からヒューマニズムを語る役どころを委譲される大地真央
ニューマニズムが行動原理の柴咲コウ
で、両者それぞれ、有得なくカッコ良くヘリコで登場し、皆に促されて有得なくカッコ良く演説し、有得なくカッコ良くラペリングして、約束を交わした少女を救助する、と。
「有得なく」ってのもポイントなんではないかと。*3


草なぎ剛が演ずるところのヒーロー小野寺の存在感というか「生命感」の消し具合は異常。
劇中、彼ほど「移動」の描写が無い登場人物はいない。
特にイギリス行きが決まってからは、登場カットの間は彼はどこで何してるのか良くわからない演出で。藤岡弘みたいに、最前線で潜水艇に乗ってる訳じゃなさそうだし、かと思えば被災地の真ん中に無傷で現れる、被災者の母親に一声かけるだけでその場を立ち去る、いきなり故郷に現れる、いきなり一時避難所にキャベツと日本酒を持って現れる、いきなり救助部隊の宿営地に現れる、ヒロインに「抱いて」と言われても抱かない、、、etc。
ヒロインはバイクで転げたり、骨折したり「生」があるのに、傷ひとつなくフラと出現する。服が汚れてさえもない。
さらに、ヒューマニズムの部分は丸ごと及川光博に割り当てられてるんですね。


いや、もうこれはワザとでしょ、と。
そして、それらは平成の今、こういう「大きな物語」を観るにあたって、観客がどうしても感じがちな「わざとらしさ」を効果的に減じていると思うんですね。
あそこで柴咲コウ抱いちゃったら「またまたぁ、、、」って思うでしょ?思いません?じゃあ、ラブストーリー無しにしましょうか、どうせみんなに「安っぽい」だとかナントカ言われるし、って、そんなん物語になる訳ねーだろ( ゚Д゚)ドルァ!!、と。




樋口監督の前作「ローレライ」は大きな欠点がひとつあって*4、それは1945年の物語を平成のメンタリティで語ってしまった事だと漏れ様思っていて。で、今作は、平成の日本沈没をm正しく平成のメンタリティと平成のメンタリティをもつキャラクターで描いた妥当な作品だと。
やりましたね、樋口監督、と。


ついでに一つ言っておくと、上で触れた「平成の今らしさ」って、漏れ様個人は、どうしようもなく気持ち悪かったりはするんですがね、エエ。

*1:あ、けどヒロインを探すため、って動機もあることはある。

*2:いや、ただの邪推なのかもしれませんけどね。

*3:あと、「こんな計画できっこねぇ」って最初から投げてる田所博士のプランを、実現に漕ぎ着けてしまう大地真央、イギリスに自分達だけ逃げよう、という「ヒーローにあるまじき」誘いを迷いなく断る柴咲コウ、ってのもあるな。

*4:つか、漏れ様は原作の欠点だと思うんだけどね。