脳トレ周辺の

ネタをお知り合いの方々がダイアリーで書いておられて。
その中でサイエンスライター鹿野司さんのブログも紹介されていた。



で、思ったのが、人間、何かを反復練習すれば、ソレについて関係する脳の部分が活性化して、つれて身体的にも適応して上手くなる、と言う単純な事なん違うかな、と。


子供がキレるだ何だなんてのは、テレビゲーム云々でなく、実は単に、「キレる」メリットが「我慢する」メリットを上回ってるから違うかなと思ったりするな。
で、キレたらエライ不利益を被った、って経験を何度も経験すると、少々の事ではキレない様になる、と。*1




で、鹿野司さんも書かれているけれど、自分も、認知症のお年寄りに、計算問題させたら認知症が改善もしくは維持された、って「療法」のミソは、

学習する側と支援する側が、マン・ツー・マンでコミュニケーションすることが重視された

なんじゃないかな、と思っている。



というのも、フツーに一般生活営めてる人はそう感じないことかもしれないけれど、個人で自宅で仕事なんかしていると、他人と「話す」能力がガンガン落ちていくのが、分ってしまうのが面白い。
何も情動が乏しくなるとか、コミュニケーションが取り辛くなるってのは認知症だけじゃないと思うな。
本来なら、スポーツとか暗算とか脳トレとか、数値化できる「能力」でないと能力が上がってるのか下がってるのか分らないだろ、ってもんですけど。言葉を噛む、噛まないって問題じゃないしね。
でも確かに、「あれ、なんでこんなに意思が伝え難いんだろ?」とか逆に「う。ストレートに言い過ぎたかな?」とかの「空気」を感じたりするんだよねぇ。



だからだ、人間に必要な事って、人から無視されたり無用に思われてると感じたりする事が「無い」事じゃないかなぁ、と。
つまり、子供も、認知症の老人も、(そして大人も)「もっと構ったれよ」って事じゃないかなぁ、と。
だけども、日本みたいな「空気読む」って社会はソレ難しいよね。真意は別の所に有る、ってのがベースだから、相手の言ってる事が本当は何を指しているかは分らん訳で。それどころか相手の真意を邪推しまくってしまって、結果、コミュニケーションが減って無表情になる一方の気がするなぁ。

*1:や、けど自分は日本人「一般」は、もう少し理性的に「怒る」事は必要なん違うかなぁ、と思ったりしてますが。