トロン・レガシー

を、Zun氏にお付き合い頂き、見に行ってきた。


この映画、前にも書いたけど前作「トロン」は、自分が3DCG屋なんていう職業に就く事になった原因の一つなのは確実で。
そんな背景も有るからか、実は3DCGのセミナーで見たブレイクダウンとかトレーラーとかからの印象からは、ま、自分への影響の大きさ故に少し厳しい見方をしてしまうよねー、なんて印象があったんですね。
とまぁ、そんな思いを抱きながら川崎のIMAXシアターに向かったのだが、果たして。





観終わって、ZUN氏とハンバーガーを頬張りつつアレヤコレヤとお互いの印象の断片を「答え合わせ」したのだが。
ZUN氏曰く、や、だからアレは「トロン・『レガシー』」なんですよ、と。
で、俺、ナルホド、と。


や、良く出来た楽しい映画だと思います、「トロン・レガシー」。IMAXで2200円で見て自分は十分満足でしたし、大半の人はそうなんじゃないかな、と。


ただ、思春期に大して流行らなかった「トロン」を見て何某かの「衝撃」を受けた人間としては、チト物足りないのよなー、と。
というのも、脚本、コンテ、編集等、ものすごく「手堅い」と。オマージュ*1も色々混ぜ込んである。日本の(黎明期の)ゲーム会社へのリスペクトもある。


まぁ、スターウォーズEP3のような「出来の良さ」だ、と。実際クライマックスはSWシリーズへのオマージュだろ、と。



けどなー、ガキの頃の自分が受けた衝撃ってのは、SWシリーズのようなソレでは無くて、例えば「2001年宇宙の旅」や「ブレードランナー」的な衝撃なんだなー、と。


そう言う意味では、色々、手堅く作り過ぎてる。カットとか演出によっては古臭いとも言える。
ZUNさん指摘なのだが、例えば、本作のヒロインのカメラへの捉え方は、ヒロインたるもの、チョッと弱い、護るべきものとしての、70年代までのセクシャリティだと。それは主人公が作中のキャラクタと会話しているシーンで挟まれる、ヒロインのカットに現れている、と。
ナルホド、と。
今の最新のヒロイン像ってのは、「カッコ良いヒロイン」だもんね。「男気のある女性キャラ(via町山のアニキ)」と言ってもいい。
だから、こう、ヒロインのクロアは、主人公をピンチの場面で助けまくってるんだけど、イマイチ、見栄が切れてないというか、「キマッタ」感の無いカットばかりに自分は感じてしまったんだろうか。



そういう意味では、脚本のプロットも、王道と言うか「古典的」だよなぁ、と。「あー、ここで主人公が、古今東西の神話で言うところの、「旅にでる」んだなぁー」とか。



で、俺は何といっても、デザインだなぁ。あと、そのデザインを映すカットだなぁ、と。
いやね、「デジタルの世界」を表現するのに、手堅すぎるよなぁ。
デジタルの世界のゲームで、プログラムが「やられる」とキューブ状にバラバラになって崩れ落ちる、って、なんかもう一捻りないんですか、と。どっかで見たような気もするんだが、こういうバラけ方。
デジタルの世界に対する「センス・オブ・ワンダー」が足りない、あまりに足りない。
人が思いつきそうな、ではなく、かと言って理屈の忠実な翻案でもなく、ああっナルホド、といった何かが足りないよね、と。で、前作「トロン」は、デジタルがこうもコモディテイになる前の時代であった、ってのもあるけど、それでも、今でも色あせる事の無い「センスオブワンダー」「イマジネーション」に溢れているよなぁ。


そんな風に思うと、作中、キャラクタ達が操縦桿的なモノを操るカットがたくさん出て来るんだが、ソレって表現としてどうなの、とか。
ライトサイクルが「ちゃんと」エンジンめいた物を積んでる、とか、機銃が、あまりにも機銃らしい動作をし、ソレを捉えるレイアウトもまた古典的である、とか。
あるいは、リアルな雲、煙って、それだけでいいの?とか、(ライトサイクル・ゲーム内で)バイクが正しくリーンするのって、それでいいの?そもそも、重力や雨の水滴やら、ちょっと「正し過ぎ」ね?とか。


カットと言うかレイアウトもねー、なんか「狭い」感じというか、実際にあるカメラのレンズの範囲の画角しかつかってないんでね?とか。
前作は「広大な感じ」がうまく出ていた気がするんだよな。


あ、あと、オマージュたくさんありましたナー。
マトリックスブレードランナー、2001年、そして前作。あと他にもたくさん。つか、入れすぎなんでね?オマージュ。
作品的にも、そこまでオマージュするのもどうなの、と思うのがラストシーンの「ブレード・ランナー(インターナショナル・バージョン)」へのソレな。
そのシーンのメインに据えるべきは「朝焼け」なんでないの?黒O.Lはチョッと違うんでないの?、と。
劇場を出たときの川崎の町並みに沈む夕日の方が遥かに印象的って、ソレどうなの、と。



そんな訳で、こういうSFの「アイコン」的作品のリメイクで、かつ、ハリウッドの、俺なんかより全然才能や経験が有る人らが作ってる作品名ワケだからして、本作の首脳陣*2に対しては、もう0.5歩は前に踏み出すっていうか、ハッチャけるというか、気張ってほしかったなぁ、と。
それこそオマージュ「する」んじゃなく、「される」方を目指してほしかったな、と。



とかなんとか、ブツブツ言ってると、「や、だから『レガシー』なんですよ」、とZUN氏。それが全てを物語っている、と。
確かに、副題は仮に「ネクスト・ジェネレーション」でも別によかった訳だ。ここで、なんで『レガシー』なのか。
作中には更に続編は作れるように伏線だけは張ってあったりするんで、まぁ、何か新しいの、は(作られるなら)次作で乞うご期待、ってところなのか知らん、と。
取敢えずはこんなトコです、ハイ。

*1:所謂「インスパイヤ」では無くて、ね。良い意味で。

*2:上で挙げた演出的というか、テイストに類する事は、ベタの現場レベルの仕事じゃない筈だからね